世の中には、理(ことわり)というものがある。
日常という名の薄皮を一枚剥げば、そこには虚と実が複雑に絡み合い、
解きようのない怨念や執着が、澱(おり)のように溜まっている。
演劇という装置は、その澱を掬い上げ、
眩い光の下で晒し物にする、一種の呪術的な儀式に他ならない。
私は、その儀式の目撃者となった。
二〇二六年、如月(きさらぎ)。
冷え切った外気とは裏腹に、劇場という名の「境界」には、
得体の知れない熱気が渦巻いていた。
舞台初日、そしてアフタートーク。
私はその空間に身を置き、ただ一人の女性の「変貌」に意識を研ぎ澄ませていた。
水野ふえ。
かつては仮面を被り、熱狂の渦を支配した彼女が、
今は生身の、しかし圧倒的な霊性を纏った表現者としてそこに立っている。
今回のコメディーという試みは、いわば喜劇の仮面を被った「業」の曝け出しだ。
彼女が演じた、二つの貌(かたち)。
一つは、嫌悪と愛慕の狭間で揺れる女の性(さが)。
苦手な俳優に惚れられながら、役という名の枷に縛られ、
監督という名の絶対者から「愛する演技」を強要される。
嫌悪を殺し、偽りの愛を紡ぐその姿は、
まさに現代の憑き物落としを見ているかのようであった。
その微かな表情の揺らぎに、観客は皆、
己の中にある「嘘」を突きつけられたのではないか。
そしてもう一つ。
デザイン会社の社長として、中途採用の志願者と渡り合う、峻烈な貌。
それは女たちの戦場であり、生き残りを賭けた呪詛の応酬にも似ていた。
ふえ氏の持つ凛とした佇まいは、
混沌とする戦場において、一筋の清冽な風のように吹き抜けたのである。
コメディーという体裁は、得てして残酷なものだ。
しかし、その分かりやすさの中に潜む、人間の本質。
ふえ氏の演技は、単なる「笑い」を超え、
観る者の心の奥底に眠る「何か」を優しく、しかし確実に揺さぶる。
相変わらずの美しさは、もはや一種の「魔力」に近い。
その光芒に触れるだけで、日々の生活で荒んだ魂が浄化されていく。
彼女が舞台に立つ限り、この現世(うつしよ)も、
捨てたものではないと思わせてくれる。
三月五日、次は「コント」という名の、さらなる混沌へ。
彼女が次に見せる貌は、いかなる妖怪変化の類か、あるいは神仏の如き慈悲か。
私はただ、その不可思議な魅力を追い続ける。
稀代の表現者、水野ふえ。
その前途に、幸多からんことを切に願う。
(o尸’▽’)o尸゛


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